ひきこもり図書館 森の中

ひきこもり図書館の別館です。色んな思いを書いてみたいです

人は物語でしか動かない 「偶然性・アイロニー・連帯」

テレビの宣伝でトランプ現象を予言した人の本を解説しますという宣伝文句を聞いた。NHKの10分de名著でやるらしい。

思い出したのは、前の大統領選挙のとき。

映画評論家の町山智浩さんがアメリカの小説を下にした映画「アメリカン・サイコ」と子役スターだったマコーレ・カルキンが主演の「ホーム・アローン」について語っていたことだ。

アメリカン・サイコ」は難関校を突破してエリートになったが、教養や社会性が削ぎ落ち殺人狂になってしまった青年の話らしい。

彼の理想の男性としてトランプが出てくる。

そして、「ホーム・アローン」ではトランプが話題の人として出演している。

主演のマコーレ・カルキンが来たとき、タモリさんが、笑っていいいとも!で彼の親が莫大なギャラを取っていたことを批判した。禍々しいことなんだと思って話題の映画は見なかった。

トランプを称賛する人は、これらの映画の舞台であるニューヨークではもう少ないと思う。しかしながら、わたしたちの何らかの病理があるんじゃないかと感じた。

 

解説者の朱喜哲さんについては、社会学者の岸政彦さんのオンラインイベントで知った。

ローティの語った「バザールとクラブ」という言葉についての本を出したことの話だった。

社会学は人々の語りを分析し役立てる学問だと思う。岸さんのその立場からローティは知的なインテリの理想じゃないかというツッコミをしていて、それに彼は果敢に応えていて面白かった。

そうなのだ。日常に追われているとそんな事考えてなれない。本なんかも読まないよね。

 

それでテレビを見てみた。ローティは絶対的な真理を求める哲学を否定し、正解はポリフォニー多重的にあると言って異端とされた哲学者らしい。

実際に日常を生きてるとそれは実感される。それぞれの立場で正しい。

 

絶対的な真理を求めると、彼のいうところの残酷性、声を失った人々を無視することにつながる。

人々の欲望を真理とするために、我々という言葉で人々を集め、それを内面化すると、我々という言葉で押し切ることができる。

中絶禁止をとなえることで象徴的なトランプ現象とはそういうものかなって感じた。

中絶は関係ない人には気持ち悪いことでしかないだろうから。

人々の素朴な宗教観とかでは正しいのだろうけど、必要な人は必ずいる。

私に関係ない人の権利を阻害することは残酷だ。

その人にとっての正しいは色々とある。

 

それを防ぐ方法として、「偶然性・アイロニー・連帯」では、ナバコフの「ローリタ」についての分析があるらしい。

 

例のロリコンという概念を広げた作品だ。あの本が世界文学になっているのは納得できなかった。しかし、ナバコフが一ヶ月かかったという場所が引用されていてわかった。

 

主人公は少女のロリータに心惹かれ、彼女の母親と結婚する。そして、母を事故でなくしたロリータを騙して連れ回す理想の放浪生活を送る。

その時に立ち寄った床屋で涙ながらに、30年ほど前の第一次大戦で失った息子の話を聞かされる。

しかし、彼は床屋が涙を彼の掛布になすりつけている不快さしか感じない。

これは私達の、私の日常生活でもあることだろう。

不幸な話に耳をそむけることは。私にどうしろってことだ。まして、30年も前のことだ。しかしながら、そういった過去に呪われている人のなんと多いことか。ハンバートは聞けるはずだよね。大学教授を務めた文学者なんだから。

 

しかしながら、主人公のハンバート・ハンバートはロリータの気持ちにも無頓着だ。

ローリタは幼いときに弟をなくし、ハンバートが彼女目当てに結婚した母もなくしている。心の傷を抱えて、孤独だ。それゆえにハンバートにこたえたのだ。

 

しかし、ハンバートはロリータが彼を愛していると思っているのだ。

ローリタは逃げだして、ハンバートは絶望する。しかし、彼はその理由がわからない。そして、ロリータは同世代の少年と出会い、出産で命をなくす。助けてあげられたのに可哀想にさえ感じる。

 

しかし、床屋の嘆きさえきちんと受け止められない私達とハンバートはどう違うのか。それゆえ、「ロリータ」は人々に届いたのだ。

あれは変態だから違うということではない。他者がわからないから、あんな残酷なことができるのだ。

ローティは残酷な行為の犠牲者の声はリベラルな小説家、詩人、ジャーナリストのことばでないと届かないと記しているようだ。

(私はリベラルってちょっと引っかかるんけど。このあたりはちゃんと読んでみないとわからん。)

とにかく、情動でしか人は意識を拡張し、連帯できないということかなってって感じた。

 

私はこういう境遇の少女と中学校の保健室なかまだった。お互いに家族のことで身体を病んでいた。

彼女は16歳でおっさんに騙されて、子供を生んだ。私は先生がいないとき、保健室で彼女に執拗に暴力を振る舞われた。従えと言われた。太っていて醜かった。

私は恵まれていた。萩尾望都竹宮惠子の漫画を読んでいて学習していたので、そういった世界に取り込まれなかったと思っている。

漫画を語り合う友人にも出会った。多分、保健室の先生のはからいだと思う。

私は言葉を失っていなかったからだ。

 

うん、色々と私はローティを知って考えさせられた。

 

もし見たいと思ったら、NHKオンデマンドで配信あります。1回220円です。

当事者ってそう感じるか


 宮藤官九郎のドラマ「不適切にもほどがある」の最終回を見た。

病気で入院していたのだけど、体力が戻って、初めて夜の10時代に息子といっしょに見た。その前の回までは配信でポツポツ見ていたのだった。便利になったものですな。

このドラマに関しては色々と思うとこあるのだけど、同世代の作者に心でツッコミを入れながら楽しんでいた。

タイムマシンで今と昭和の終わりを色んな人が行き来するファンタジーコメディだ

阪神淡路大震災の回はほんと良かったと思う。

私の親族は淡路島の人が多かったり、神戸の学校に通っていたりしたしで泣きながら見ていた。

 

最終回、不登校の中学生が出てきた。あの頃は登校拒否というのだな。

未来から来た中学生で友人になった子が、中学なんか後で考えたら、あっというまんまだよって気にするなって感じのセリフをいう。

それに励まされて彼は学校に復帰する。タイムマシンが出てくるコメディなのだ。

いいセリフだなって感想を言った。

年寄り臭いなって不登校だった息子が言った。俺は長かったよ。中学生にはとんでもなく長いんだよ。こんな事言われても響かないよ。

私ははっとした。これは長生きして成功した人のセリフなんだね。

後で考えたらそうだったって、生き残った人の感想だ。

その言葉はギリギリまで追い詰められた人には響かない。

息子とドラマに見れて、この言葉を聞かせてもらわないと、私は気がつかなかった。

では、このドラマへの彼の反論はどうなるのかな。

これから描かれるドラマできっと誰かが描いてくれると思う。それが希望かな。

 

www.tbs.co.jp

 

 

 

みんなゾンビ

 


大病をして入院していたとき、入院している大学病院で糖尿病でも働こういう企画があってどうかしてると思った。薬剤であるインスリンを打ちながらですよね。

しかしながら、そういう人は結構いるのである。

ほんの50年ぐらい前なら死んでいる人が生きている。そして、働いてさえいる。

これって、娯楽映画のロメロのゾンビじゃないか。生きてるけど、死んでる人。

 

親にやっとこ養われてたり、社会の隅っこにいる、ひきこもりもゾンビなんだと思う。

しかしながら、お金を稼がないから、いない人になっている。

糖尿病も癌も年配の人が多い。

少々の老人でもスキルがあるんだから働けってことですよね。

もちろん、若年の人は当然。科学はそれほど進歩したんだという信仰の場でもあった。

 

私はあのホラー映画の群れが何故面白がられたか、わかったような気がする。

 

 

居場所は街にある。

 森の中で迷って寄り道してみよう。

ひきこもり図書館のブログ始めてみます。

さて、居場所ということについて。

さっこん、子ども食堂が地域の居場所になりつつあるということがあります。

 

子ども食堂はほんとに困った人たちは来てないという批判もあるし、本来は行政がすることを人々の押し付けているという主張ももってもだと思う。子供が中心というのも偽善的な気がします。

 

しかしながら、人々の世界が会社や仕事や学校になりつつあり、公の場故にリラックスして居れない、競争があったりする、ノルマがあったりする、

武装解除できない場になっているのに皆が疲れていて場を求めているのは切実かなって思います。

 

かつて、色々なことが簡単に解決できないがゆえに人は人とたわいない会話をしてやりすごしました。

クーラーのない時代、夜道に出て近所の人たちと縁台で話した思い出は忘れがたい。

今そういった物が消えつつある気がします。

私にとっては故郷の下町の路地の草花を愛でることで、人の善意を感じることができました。言葉は両刃の剣だけど、花を褒めてほしいという気持ちの共有感で救われる気がしました。居場所は街にあるのかもしれないと思っています。